あんな風にはなりたくない~【実例】「友人」編

孤独な若者生き方スタイル
孤独な若者

こんな「友人」はいませんか?

物を売りつける「友人」

同級生が、アクセサリーショップを出したというので、お祝いに行きました。

もちろん、何か買って応援もするつもりで。

ところが、そこはショップというよりも雑居ビルの上の階の部屋で、案内されなければ分からないようなところでした。

通りすがりの人も来なければ、展示品に価格もありませんでした。

少しは懐かしい話や楽しい話もできるかと思っていました。

ところが、のっけから、商品をどんどん勧め始めました。

それも値段は言わないままに。

付き合いでひとつ買うことにしたら、それとセットだとか、今の服に合うとか言いだし、結局3つほど、勧められるままにイヤリング、ネックレスを買いました。

そして包装して、最後に金額を計算機に打ち込んで、「これだけになるけど、友人価格にしておくね」と値引きをしました。

驚いたのはその価格でした。桁が違いました。

いきなり何十万円も売りつけます?

断ることはできたし、それはない、ということもできました。

でも、私は敢えてその金額で買いました。「この人との縁は切ろう」という手切れ金として。

後で調べたら、やはり1/10くらいの物、せいぜい高く見ても1/5くらいでした。

お金に困っている風でもなかったのですが、その店は相手を見て値段を決める押し売り商売のようであり、いつもしているうちに当たり前になってしまったのかもしれません。

その後、彼女は、同窓会には出てこなくなりました。

「友人」で不当なお金儲けをしようという人は、「友人」ではないのでしょう。

古着を押しつける「友人」

おしゃれな「友人」がいました。

いつも最高級な品質のスタイリッシュなブランド服を着ていました。

ところが、「2,3回しか着ていないので、サイズ直しをすれば似合うと思うので来て下さい」と手紙と共に、スーツが2着送られてきました。

確かに、生地も仕立ても良い物、誰でもが知っているブランド品です。

意向を聞かずに送りつけられるほど、親しくはありませんでした。

着なくなった理由は分かります、それは形が古くなって今の形とは違うからなのです。

それを直して着なさい、っていうことは、お古を払い下げる失礼な行為だと分かっていないのかもしれません。

貴方の要らない物は、私も要らないのです。

頼まれてあげるならばともかく、どんなに良い物であっても、自分の中古品を一方的に送りつけるものではありません。

メルカリなどで売ればいくらにはなるのでしょうから、知っている人に無料であげて喜んでもらいたいという気持ちなのでしょう。

しかし、私は欲しいものがあれば、自分で買います。

自分の働きに見合った服を買うので、欲しいとは思いません。

いかに良い物でも、「使ってもらえるとありがたいけど、不要かしら?」ときくべきでしょう。

デリカシーを欠くマウント女性とのそしりを免れないのではないでしょうか。

宣伝をさせる「友人」

さる「友人」から、「夫が本を出版しました。購入してくれませんか」という案内を受けました。

私にはいらない、たぶん読むこともない本でしたが、お祝いのメッセージと共に、1冊買いました。

するとどうでしょう!

「良い本なので、多くに人に読んでもらいたいので、知り合いの人に勧めてください。もう1冊どうですか」と返事とパンフレットが来たのです。

開いた口が塞がらないとはこういうことでしょうか。

私も自分の本を出したことがあります。

けれど、役立つかもしれないと思える友人には、ただで送りました。

「友人」に買わせようとか、まして宣伝させようとか、思う発想すらありません。

そもそも、「本」はたとえ無料であっても軽々しくあげるべきではないと、思っています。

なぜなら、その人に「読む時間」、少なくとも「一読程度の走り読み」であっても感想を言える程度の時間を奪うことになりかねないからです。

どう考えますか?

図に乗る人

上にあげたような人は、単に無神経なだけで悪気はないのかもしれません。

嫌なら嫌で、はっきり断ればすむ話です。

私は、仮にもそのような人と「友人」だったわけです。

だから、一度はそのまま付き合います。

桁が違う商品も文句を言わずに払いました。

いきなり送りつけられた服もお直しをして着てもみました。

1度は読みもしない高額な本も買いました。

ところがどうでしょうか。

そのような義理の付き合いをした後、その「友人」達は満足したでしょうか?

いいえ、さらに同じことを、あるいはより多くをしかけてきました。

つまり、そのような神経の人は、止まるところを知らないのです。

友人ではない

そこで思ったのは、そのような神経の人は、友人ではないということでした。

距離をおき、付き合わず、接点を持たないのが精神衛生上良い、ということでした。

拒絶して、その「友人」に分かるように言わないと、同じ価値観や思いやりを持てない人と、大事な時間を過ごすことはない、ということです。

その「友人」達の周りには、同じ価値観の人が集まることでしょう。

そのような中にいると、同じような色に染まっていきそうです。

忠告は無意味

間違っても、正そうとか、忠告しよう、などと思わないことです。

学生の頃には、気づかなかったことも大人になり社会に出れば、気づいたり変わったりしたのでしょう。

忠告したり、自分の考えで説得したり、そのようなことをしても意味がありません。

根本的な価値観は、その人が経験して学ばなければ大人になって変わることはありません。

孤独をおそれない

「ひとりぼっち」よりまし、と思わないこと

上にあげたような「友人」であっても、いないよりまし、と思ってはいけません。

「ひとりぼっち」と思われるのが嫌さに、不実な「友人」とつるんでいませんか?

「孤独」をおそれることは、ありません。

さみしさは、「孤独」からではなく「多くの人がいるのに誰も理解してくれない」からなのです。

それなら、「友人」という名の「カモ」から脱却することが必要です。

友人を見失わないために

不実な「友人」は厚かましいのので、貴方の時間を平気で奪います。

本当の友人は、遠慮してしまいます。

貴方が本当の友人を見失わないためには、不実な「友人」のふりをして近寄ってくる人を排除しなければなりません。

強引さや無神経さに魅力を感じて、自分から行ってしまうことも避けなければなりません。

『エセンシャル思考』

グレッグ・マキューンの『エッセンシャル思考』は、実践的なすばらしい本です。

単に不実な「友人」のカモになることを避けるだけではなく、意識的に「重要なことを成し遂げるために」「嫌われることをおそれるな」と断言しています。

何でも引き受けないで、本当に重要なこと以外は「ノー」と言おうと強調しています。

私もまだまだ、器用貧乏の生活に振り回されています。

「八方美人」を止めきれていない自分がいます。

皆様と一緒に、この『エッセンシャル思考』を実行していきましょう。

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